「人間万事(ばんじ)塞翁(さいおう)が馬」
「これは幸福のもとになるだろう」
老人が言った。このじじいの言うことはどうも胡散臭い。
ここはある国の北方にある砦近くの場所。最近越して来たばかりだ。俺が前に住んでいたところは内戦が激化したせいで家も町も友人もみな跡形もなくなってしまった。
命からがら逃げおおせたが、この足ではいつ攻撃に巻き込まれて死ぬか分からない。
俺は生まれつき片足が不自由だ。ただそのおかげで一度も軍隊に徴兵されることはなかった。唯一、不幸中の幸いといえるだろう。
ここに来れば少しは安心だ。要塞があるおかげで容易に外敵から攻め入られることはない。
「わしの馬が隣国に逃げてしまった」
隣に住むじじいが嘆いていたので話を聞いてやると、なんとこの出来事は幸福の前触れになると言い張るのだ。
どうやらここいらでは占いがよく当たることで有名なじじいらしい。
俺はそんなものは信じない性分だが、ここまで何度も死線を潜り抜けてきた。占いでも神でも、とにかく何かにすがりたい気持ちは僅かにあった。
数日後、じじいの馬は名馬を連れて帰ってきた。馬が馬を連れて。あの言葉は的中したようだ。
「言った通り、馬が逃げたのは幸福の前兆だったわけですね」
事情を知って俺も駿馬の如くじじいのもとへ駆けつけた(もっとも、足の悪い俺は駄馬にもならない)のだが、じじいは浮かない顔をしていた。
「これは不幸のもとになるはずだ」
すると今度は名馬の訪れが不幸の前触れになるというのだ。そう言い放つと険しい表情のまま家の中へ戻っていった。
じじいには子どもがいる。騎馬を好むそうで、名馬が手に入りとても喜んでいると聞いた。
それから数日後、じじいの息子が落馬して骨折したと聞いた。不幸の訪れだ。
俺が見舞いに行くと今度は「これは幸福のもとになるだろう」といった。
そんなまさか。予想が的中しているとはいえあまりにも当てずっぽう過ぎる。
ましてや怪我を負った息子をよそに幸福の前触れなどとあまりに不謹慎ではないか。
俺はやっぱり占いを信じない。
それから数か月後、じじいは病で斃れた。
息子は酷く悲しんだ。片親に育てられた身であったものの、十分に愛情を注いでもらい、教養を与えられたのだろう。戦死だろうが病死だろうが、肉親が死ぬときはどんな理由でも辛いものだ。
息子は俺にいう。
「僕が骨を折った日、父は“これは幸福のもとだ”といってましたよね。でもそれから今日まで、いいことなんて何も起きなかった。隣国の軍が押し寄せて、僕たちの周りはみんな殺された。そして父もまた死んでしまった」
じじいが死ぬ数日前、隣国の敵軍が大挙して侵入した。砦が崩され為す術がなかった俺たちのもとに、味方の軍が到着して返り討ちにしてくれたが、そのせいで若者のほとんどが戦死した。
じじいの息子はこのことについても嘆いていた。
しかし俺は分かっている。
確かにあのとき、お前が足の骨を折った出来事は幸福の前兆であったと。
なぜならお前はそのおかげで徴兵されずに、若くして死なずに済んだのだ。
そう。俺と同じように。
じじいは死ぬ前の最後に、俺とお前に一番でかい占いを言い当ててこの世を去った。
でもじじいは自分が死ぬという不幸の前触れだけは口にはしなかった。
俺はやっぱり占いを信じない。